五十九日目
五十九日目
ホステルのオーナーさんから、どんべぇとか餅とかお菓子とか一日早いクリスマスプレゼントをもらいました。
方法マシンの三宅島再演ライブと、寿町ウォーキング音楽映画。映像ではないのでもはや音楽映画ではないですが、なんと表現したらいいのかわからないので、とりあえずこう呼んでおきます。
寿町の最も危険地帯を音楽映画できたのには驚き。まったく予定してはいなかったけど、一緒について来てくれたYさんが行っちゃえというので、行ってみました。僕らが通ったあとに、しっかりYさんが組長と話つけてるのが圧巻でした。感謝。
しかし、ウォーキング音楽映画は映像の音楽映画と同じくらい「構成」をしなければやっぱりいけないとか、寿地区で音楽映画をやってしまう事件性が伝わってるのか(伝えないでもいいのか)。など、初めから即興音楽映画はユルくやるつもりだったけど、やってたことはやはりユルくやるべきものではなかったのだなあという反省点もある。でも実際そこにあるものの構成ってどういう事なんだ?ということは、考えましょうと思った。音楽映画は歩きながら見えたもの、嗅いだ匂い、聴こえる音(これやったら無限ループに陥るから無しか)など、全ての環境を相手に言語化していく。
Yさんに聞いた話しでは、僕らのユニフォームの紺のツナギは、寿地区界隈では、「戦闘服」としてみられる服らしい。
どういう意味の「戦闘服」なのかは、紺の色が警察色で、ガサイレなどのときの格好だったりするからだっけかな。
僕の考える戦闘服は、どうしてもサイヤ人の着るアレというイメージがあるのですが、全く違う世代から聞く「戦闘服」という言葉を僕が聞いた時にはサイヤ人のイメージと共に受け取って、でもその言葉を言った側にはサイヤ人というイメージはなく話している。
別の話になるけど、アート業界おそらくどの分野もごちゃごちゃになってきて、意思疎通がなかなか難しくなっていると思います。話す言葉についてもそうなんだけど、表現語法とでも言えばいいのか、そちらの言語も。
その原因はごちゃごちゃになったことなどによる、言葉のイメージや意味内容のシーンによる差異なのだと思う。ごちゃごちゃというのは専門性の多様化によってもたらされたごちゃごちゃです。一億総わが語法化とでも言えばいいのか? さすがに一億総までは言い過ぎだろうけど。
方法マシンという団体はまさにそこに問題意識を持って活動している団体だと思ってます。
先日駒場東大で行われた作曲家の近藤譲さんが出ていたシンポジウムを聞いた時に彼は言葉の整理が上手だと感じた。一つの言葉の意味内容を一旦整理して提示してから話すような仕掛けが彼の語り方にあるのでとても言ってる事が分かりやすいんです。
実は石破防衛大臣もそういう整理が上手に思えるんだけど、そのように感じるのは俺だけでしょうか?
俺もそうやって人と話せるようにしようと意識してはいるのですが、なかなか難しいもんなんだよねこれが。