政治とスポーツは別 政治と芸術は? 政治と音楽は?
去る五月九日の夜に吉祥寺で『Rave Tibet Live』というライブを行いました。出演はモーリー・ロバートソン、池田有希子、安野太郎とP2PFTP有志(NAMED RED、F、牛島亜希子、岡野勇仁、杉本文、じゃい、風香、松岡淳、牟田高太郎)、カール・ストーン、在日チベット人のみなさんでした。
チベットのみなさんには、youtubeなどにアップロードされている日本でのデモ映像で聴かれる特徴的な声で叫ぶシュプレヒコールのあの人もいました。どんな内容であったかはネット上で検索してみて下さい。(mixiにもあるよ)
『P2PFTP』を切っ掛けに考えていることがあります。
最近、北京オリンピックに関連して、「スポーツと政治は別だ」と言われている場面をよく耳にすることがあります。これは僕にとって「芸術と政治は別だ」と変換して考えることができる問題です。僕自身はこれまで芸術と政治は別だと考えている立場で活動していました。ところが、最近は色々と思うことがありまして、政治と切り離された芸術などあり得ないとさえも思うようにもなっており、毎晩寝る前に考えたりしています。僕自身がチベットに関連した音楽企画に関わっているからという感情移入を差し引いて考えるようにはしていますが、それでも政治と芸術は別ではないと思うようになっています。芸術があらゆるものとの関係から分断されたそれだけの状態というものを、僕は体験したことがかつてあっただろうか。
色々問題だと思っていることはありますが、『P2PFTP』を通して思ってたことは、政治とスポーツは別と言っているコキントウは北京オリンピックを成功させ、政治利用しようと企んでいる政治家として、そう発言するしかない立場に立たされていると思う。政治とスポーツは別じゃないってことを知って発言している。
それよりも何よりも、スポーツや芸術をやっている当事者達がが政治とスポーツは別だとか、政治と芸術は政治と音楽は別だとか思っちゃってるのがやっぱ変な感じがします。コキントウの方がまだましだと思うし、正直だと思います。君の作っている音楽、君の演奏している音楽、君の書いている絵、君の演じてるもの、君の撮っている映像、君の書いた物語、君の書いた文章。それが政治とは無関係だとしたら、君のやってることに意味はあるのだろうか。もっと言うとそれは美しいのだろうか? ただただ美しいと感じた音楽を耳にしたときに、それが全く政治と無関係だと言えるのだろうか?
と、色々と問いつめながら過ごしています。
ま、政治って言葉にアレルギーになり過ぎ〜って単純に思ってるだけだけど。
あと、僕は政治と芸術は別ではなくて共存するものというより、どちらかというと芸術こそが政治で政治こそが芸術であるという考えに寄っている気がします。んー言い過ぎかなぁ。量子力学だよ量子力学。0と1じゃなくてどっちもなの。
P2PFTPについてはこちら
http://taro.poino.net/p2pftp.html