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2009年11月29日

満員御礼! 音楽映画第九番 ありがとう!

音楽映画 第九番
ご来場ありがとうございました。

二回公演どちらの回も整理券が全部はけてしまうほどの盛況ぶりでした!
パフォーマーたちもテンション上げ上げで頑張ってくれました。
すばらしかったです。

今回の音楽映画は、これまでとは違いました。
(毎回これまでとは違うんですが)
映像でのお笑いは80%減、シリアスミュージックとしての音楽映画でした。
再演のチャンスとかないかなーと思ってます。
この路線なら新作も有り得るかなと思いました。


以下、プログラムノート全文を掲載します。
男臭い感じで今読むと恥ずかしいですが、しょうがないです。

音楽映画は第九番まで続くような作品だとは思ってなかった。
音楽映画に関してよくされる質問で、一体何でこのような表現を思いついたか聞かれることがよくある。

ある日の昼下がり、バイトの休憩で煙草を吸っていた時だった。
そこは駅前に建つ適度に賑わうスーパーの前。
目の前を通り過ぎて行く人々。
かごが買い物で一杯になった自転車をこぐおばさん。
スーパーの入り口でお茶を売る人。特価品の値札が目立つ。
母親に必死で追いつこうと走る子供。
背中が曲がり、10m歩くのも大変そうな老人。
買い物カートの列を運ぶ従業員。
そして、全ての視界を遮るように横切るトラック。
トラックが通り過ぎると、そこには誰もいない。
一瞬間が空いた後、またすぐに人が通り過ぎる。
こんどは電車が到着したのだろうか、駅から流れて来る人の波が目の前を通り過ぎる。

当時この様な風景をボーッと眺めていた僕は、ふとした瞬間に目の前に見える風景を言語化していることに気付いた。正確に言うと、"自分の持つボキャブラリーの範囲"で目の前の風景を言語化していた。目の前の風景は写真ではない、時間と共に刻々と変化していく。目の前で繰り広げられる言葉の流れを頭で思っているうちに、なんらかの秩序が生まれたと勝手に考えた。僕はそのなんとなく目の前に現れた言葉の秩序を自分の手で構成し、確かな物にしたいと思った。刻一刻と変化してゆく光景を"固定し確かめる"ために僕はカメラを構えた。そして、撮影された映像から聴こえる(想像の上で)言葉に耳を傾けた。言葉を口にしたら、それは音声になった。音響を時間軸上に構成することを作曲と呼ぶのなら、このようにして生まれたものを作曲された音楽作品と呼んでよいのではと考えた。幸運なことに、現代は技術革新が進んでおり、僕みたいにカメラをさわったことのない者でもカメラを扱うことができたし、編集も簡単に行える時代だ。僕は中古で買ったビデオカメラで撮影を始め、コンピュータにはじめから付属している動画編集ソフトで編集をした。これが、『音楽映画』のはじまりだった。

『音楽映画』は当時の僕にとってとても手応えのある試みとなった。音楽映画という名は映画音楽を反転した名前だ。当時の僕は、映画のBGMでもないのに映画音楽みたいな音楽にムカついていた(映画のBGMは音楽としてスルーしていた)。映画のBGMでもないのに映画音楽みたいな音楽というのは、すでにありそうなイメージを容易に想起させるような音楽だ。それは映画のようにストーリーがあるイメージだけでなく、iTunesビジュアライザ(あんなもん最悪だ!)を代表とする様な抽象的な映像をイメージさせるような音楽も同様だ。音楽家は映像の力に想像力をだいぶ浸食されていってると感じていたし、自分自身もそうだと思っていた。音楽によって何かをイメージしてはならないわけではない。音楽は、見えざる世界を見せる芸術だ。音楽を聴き、トランスする感覚というのはそういうことだ。しかしそれが映像によって可能なら、音楽など必要ない。映像によって見せられるイメージを超越してこその音楽であると僕は考える。現代音楽と呼ばれるような新しい音楽を生み出していく分野ではなおさらだ。僕は、「音楽映画」という試みにより、目には目を、歯には歯を作戦で、映像に対して音楽側からの戦いを仕掛けたのだ。それで、一人でも多くの人々を映像によるイメージの呪縛から救い出そうと考えたのだ。そうやって勝手に僕一人の一方的な『音楽映画』という名の聖戦が始まった。

ほとんど目もあてられないが、当時は本気でこんなことを考えていた。
そして、そうやすやすと映像の力にはかなわなかった。映像の力はいまなお強大だ。

こうして、映像に対する聖戦だったはずの音楽映画だったが、はじめて出来上がった音楽映画第一番(新港ピアで展示中)を見たときに、僕は感じた事の無いような妙な感覚を覚えた。映像をただ言葉にしているだけなのだ! それは、映像の情緒と音楽の情緒との関係を断ち切り、映像の情緒を音楽の情緒とリンクさせ、相乗効果を生む様な行為を否定し、人々を映像イメージの呪縛から目覚めさせる為のソルジャー・安野太郎のメッセージのはずだった。しかし、映像をただ言葉にし、それを口に出す行為を客観的に聞いていると、それは映像に対する過激なメッセージというよりは、人間がものを見ること、認識することにまつわる根っこの感覚に触れる行為のような気がした。妙な感覚というのはこれだ。僕がこれまで感じたことのなかった人間の一面に触れたのだ。これによって、僕が映像に対して始めたケンカなどちっぽけな事に思えてしまい、もっと大きな人間の根源的な部分を発見しそこにアクセスできる音楽としての『音楽映画』の可能性に気付いた。音楽映画がアクセスできる人間の根源的な部分は何なのかということは、いまだに僕ははっきりと言えない。こうして音楽映画を実際に作り、聖戦の意味が変わった。人間の探求だ。

音楽映画は、作曲家・安野太郎が「映像」に一発お見舞いをくれてやる、映像という飛び道具を使った花火のような作品で終わるはずだった。ところが、「人間の探求」が始まってしまったが為に、第九番まで作って続いてしまうような、大仕事になってしまったのだ。

もう、紙面が少なくなってしまったが、第九番にいたるまでの経緯を書く。
音楽映画第一番を作ったとき、それは一人の声による多重録音の作品だった。僕が自分の持つボキャブラリーの範囲で目の前の風景を15回言語化したものを重ねて、映像に貼付けたのである。それは一人の声の一人の世界の音楽映画だった。その後第二番から第三番を除き、これまでは複数人数(安野太郎はソルジャーからジェネラルに変わった)で自分では無い他人の声により、さらにライブによる実現という形態で発表されている。音楽映画は言葉だけによる音響で、一聴した感じでは音楽と呼び難い印象だが、ライブで人間がステージに立ってパフォーマンスを行うことによって、音楽映画は首の皮一枚『音楽』に留まっていると考える。このような音楽映画がいかに音楽であるかの論述をここでもしたいのだが、足りない……!
今回の第九番にいたる重要な転機が音楽映画第七番からにある。第七番からは、映像にCGによる読み取り棒が加えられた。これまでは、パフォーマーが何を見てどのように言葉にするかにある程度自由が認められていたが、読み取り棒を加えることにより、”何を見るか”という視点と視点の移り変わりの時間上の変化に制限が加えられた。パフォーマーは読み取り棒にそって映像を認識するというルールが加えられたのである。それはスキャナーのそれと同じだ。それは言い換えると、視点というパラメーターが作曲に加えられたことになる。音楽映画において、構成がさらに重要となった。作曲家冥利に尽きる。今回の第九番は第七番、第八番までのアプローチを受け継いだ強化版である。人数が増えた豪華版ともなっている。
16人の人間スキャナによるまなざしのアンサンブルを是非楽しんで下さい。


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投稿者 taro : 22:50 | コメント (0)