音楽映画とはビデオカメラで撮影した映像に映った内容をテキスト化しパフォーマーが声に出して行く事で音楽を成立させる、映像と音響、言葉のための新しいカタチを目指すパフォーマンスである。映像そのものが譜面となるので、映像を見ながら発声することでパフォーマーが演奏者となり、映像を撮影した者が作曲者となる。
目に見えたものを思いつく限りただ声に出すということは一見単純でばかばかしいことのように思えるが、私はこのプロジェクトによって、人々が持つヴィジュアルとサウンドの関係を捉えるある"感覚"に侵入しようと企んでおり、「音楽映画」はこれまであたりまえの様に我々が見せられ聴かされていた映像と音楽の常識を根底から見直す試みだと考えている。
さらにこのプロジェクトを発端として、我々が日頃常に対峙している、イメージと創作についての幻に迫ることを追求する。
音楽映画について考えた断片
山手線全駅すべて降りて撮影した映像素材が元になって作られている音楽映画。大崎駅から始まって、五反田駅で終わる。
山手線を舞台に選んだ理由は、音楽映画の目的に集中するために、映像の素材や編集による意味性を極力なくし、かつひとつの作品としてまとまった素材となりえるものを考えたときに山手線各駅を撮影し、それぞれの駅を30秒ぐらいでまとめれば、適当な長さのまとまった映像ができると考えたからだ。
また東京という都市の多様性を象徴する山の手線という舞台は、様々なシーンの撮影ができることを期待され、「音楽映画」の多様なリアライゼーションを試す事ができるうってつけの素材だと考え、最初の作品としてふさわしい舞台だと思えた。
この作品に収録されている音声は全て私自身の声によるものであり、15回多重録音している。
初演:東京の夏音楽祭関連公演、手順派合同祭in三宅島
方法マシンによるリアライゼーション
もともと音楽映画は複数人の声(合唱)によるライブパフォーマンスの形態で実現が想定されていた。前作の音楽映画・山手線はとにかく「音楽映画」のコンセプトを早く実現させて、とりあえずこの目で見て聴いてみたいという考えから、声は僕自身による多重録音で行われた。
三宅島ヴァージョンの音楽映画は、作曲法(撮影法)自体は山手線の頃と殆ど変わっていない
このヴァージョンで実現したことは複数人による、映像の解釈(映像を言葉へ)と、発声であり、これによって映像を作家ただ一人の世界で解釈した言葉で表現することを避け、よりコンセプトを明確にしたつもりだ。
映像の解釈とパフォーマンスは方法マシンの協力によって行われた。
この作品は三宅島という狭い小さな島を舞台としたため、作品を初演した三宅島での発表は、作品を見た後に島を散策すると作品で見えていた風景と同じ風景がすぐ側にあるため、音楽映画の世界を追体験できるという追加効果があったが、これはあくまでも追加効果であり、この作品の主題ではない。